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第4話 商店街の弁当屋娘、白いパーカーの少女を見つける

last update 公開日: 2026-08-22 10:53:51

第4話 商店街の弁当屋娘、白いパーカーの少女を見つける

【本日十八時、月乃こはねとして謝罪配信をしてください。台本はこちらで用意します】

 その一文を見た瞬間、白瀬こはるの顔から、感情が抜け落ちた。

 泣いていた少女の顔ではない。

 笑えないと吐き出した女の子の顔でもない。

 画面の中へ戻るために、表情を消した顔だった。

 俺は、その変化が嫌だった。

 心底、嫌だった。

 さっきまで、こはるは泣いていた。

 鼻をすすって、フレンチトーストを半分食べて、少しだけ笑っていた。

 人間として、ここにいた。

 なのに、スマホの通知一つで、彼女の中から白瀬こはるが引っ込もうとしている。

 代わりに出てこようとしているのは、月乃こはねだ。

 明るくて、優しくて、失敗しても笑って、リスナーに「今日も生きててえらい」と言える、作られた声の女の子。

 俺は、スマホを握るこはるの指先を見た。

 白い。

 血の気がない。

 指が細すぎる。

「……謝罪、配信」

 こはるが呟いた。

 声が乾いていた。

「するのか」

 俺が聞くと、こはるはすぐには答えなかった。

 答えられないのではない。

 答えは、たぶん決まっている。

 ただ、それを口にしたら自分の身体までそちらへ引っ張られると分かっているのだ。

 源三さんがカウンターで新聞を畳んだ。

「謝罪とは、何を謝るんだ」

 低い声だった。

 こはるは、びくりと肩を震わせる。

「……昨日の案件配信を、飛ばしたので」

「飛ばした?」

「はい」

「倒れとったんだろうが」

「でも、連絡を」

「倒れとる人間が、どうやって連絡する」

 源三さんの言葉は、相変わらず乱暴だった。

 でも、妙に真っ直ぐだった。

 こはるは、スマホを見たまま小さく首を振る。

「私が、もっと早く言えばよかったんです。具合が悪いって。限界になる前に、ちゃんと」

「ちゃんと、ちゃんと、うるせえな」

 源三さんが吐き捨てた。

 こはるが固まる。

 俺も思わず源三さんを見る。

「源さん」

「何だ」

「言い方」

「言い方で人が助かるなら、わしはいくらでも柔らかく言う。だがな、黒瀬。こいつは今、柔らかい言葉で自分を絞めとる」

 源三さんは、こはるを見た。

「娘。お前さんが倒れた。これは事実だ。具合が悪かった。これも事実だ。なら、まず謝る相手は自分の身体だろうが。何で見も知らん画面の向こうに先に頭を下げる」

 こはるは唇を噛んだ。

「……見も知らん人じゃ、ないです」

「ほう」

「ファンの人は、私を待ってくれてます」

「待っているなら、なおさら倒れた娘を謝らせるな」

「でも、心配を」

「心配した人間に謝られたら、心配した方も困るだろうが」

 こはるは、言葉を失った。

 源三さんは新聞を脇に置き、腕を組んだ。

「わしは、その、ぶい何とかというのは知らん」

「VTuberです」

 俺が補足する。

「そう、それだ。ぶいちゅーばー」

「惜しいけど、まあいいです」

「絵をかぶって喋る仕事だろ」

「ざっくり言うと、怒られるくらい雑ですけど、まあ」

「なら、その絵の中の娘が謝る前に、絵の中に入っとる人間を寝かせろ。順番がおかしい」

 源三さんの言葉に、こはるは目を伏せた。

 たぶん、正論だった。

 けれど、正論で人はすぐには救われない。

 特に、今までずっと逆のルールで生きてきた人間には。

「……でも」

 こはるは、またその言葉を出した。

「でも、私が出ないと、もっと大きなことになります。もう、休止の噂も出てると思います。案件先にも、事務所にも、迷惑がかかって。謝罪配信をしないと、余計に」

「余計に何だ」

 源三さんが問う。

 こはるは、スマホを見つめた。

「燃えます」

 その言葉に、店の空気が冷えた。

 燃えます。

 俺は、その言葉を知っている。

 人間が燃えるわけじゃない。

 家が燃えるわけでも、街が燃えるわけでもない。

 でも、名前が燃える。

 声が燃える。

 過去が燃える。

 人間関係が燃える。

 そして一度燃えたら、画面の向こうの誰かは、炎を見て笑う。

 俺は、無意識に拳を握っていた。

 源三さんは、俺の顔をちらっと見た。

 何か言いたそうだったが、結局言わなかった。

「白瀬さん」

 俺は、こはるに声をかけた。

 彼女はゆっくり俺を見る。

「今の状態で、十八時に配信できるのか」

「……」

「笑えるのか」

 こはるは答えない。

 答えの代わりに、唇が少し震えた。

「台本は、あります」

「台本があったら、身体は動くのか」

「声だけなら」

「声だけなら、壊れててもいいのか」

「……そういう仕事です」

 その言い方が、妙に大人だった。

 十九歳の女の子が、諦めを仕事の顔で包んでいる。

 俺は、苛立った。

 こはるにではない。

 こはるにそう言わせているもの全部に。

「違うだろ」

 声が低くなった。

 こはるの肩が震える。

「違わないです」

「違う」

「黒瀬さんには、分からないです」

「分かるよ」

「分からないです!」

 こはるが叫んだ。

 その声は、月乃こはねの声ではなかった。

 白瀬こはるの声だった。

 震えて、掠れて、怒っていて、泣きそうな声。

「分からないです……黒瀬さんは、もう逃げた後だから」

 言った直後、こはるの顔が歪んだ。

 自分で自分の言葉に傷ついたような顔だった。

「……すみません」

 俺は何も言えなかった。

 刺さった。

 正直、刺さった。

 そうだ。

 俺はもう逃げた後の人間だ。

 燃えた後に逃げて、チャンネルを捨てて、仕事を失って、田舎の喫茶店に転がり込んだ。

 だから、逃げろと言える。

 まだ燃えきっていない彼女に、逃げろと言っている。

 それが正しいのか、俺にも分からない。

 こはるは、震える声で続けた。

「ごめんなさい。違うんです。黒瀬さんを責めたかったわけじゃなくて。でも、私はまだ……逃げたら、全部終わるんです。月乃こはねは、私だけのものじゃないから。イラストを描いてくれた人がいます。マネージャーさんもいます。歌の先生も、動画を作ってくれる人も、案件先の人も、グッズを買ってくれた人も、待ってくれてる人もいます」

 彼女の言葉は、止まらなかった。

「私が嫌だから休みますって言ったら、その人たちの時間も、お金も、期待も、全部無駄になります。私一人がしんどいだけなら、我慢した方がいいんです。だって、みんな少しずつ我慢してるから。私だけ、できないなんて」

「できないもんはできないだろ」

「それが許されないんです!」

 店内に声が響いた。

 源三さんが眉をひそめる。

 だが何も言わない。

 こはるは、スマホを握ったまま、ぽろぽろ涙を落とした。

「私、昨日、配信しなきゃって思ってました。雨の中でも、立てなくても、スマホだけは離せなくて。馬鹿みたいですよね。でも、離したら終わると思ったんです。配信をしなきゃ、月乃こはねじゃなくなる。月乃こはねじゃなくなったら、私、本当に何もなくなる」

 俺は、返事ができなかった。

 その恐怖は、俺にも覚えがある。

 クロユウじゃなくなった俺は、しばらく本当に何もなかった。

 名前も、仕事も、居場所も、画面の向こうの声も失った。

 黒瀬悠斗として生きる方法が、分からなかった。

 だからこそ、こはるの怖さが分かる。

 でも、分かるからこそ、同じ場所へ行かせたくない。

「白瀬さん」

 俺は言った。

「俺は逃げた後の人間だ」

 こはるが、泣きながら俺を見る。

「だから、偉そうなことを言う資格はないかもしれない」

「……」

「でも、燃えた後に逃げるのは、本当にきつい。何もかも焼けた後で、灰の中から自分を探すことになる。できるなら、燃える前に離れた方がいい。まだ、お前が自分の名前を覚えているうちに」

「……自分の、名前」

「白瀬こはる」

 俺がその名前を呼ぶと、彼女は少しだけ目を見開いた。

「月乃こはねじゃなくて、白瀬こはる。今ここにいるのは、そっちだろ」

 こはるは、何かを言おうとして、言えなかった。

 その時だった。

 店の扉が、勢いよく開いた。

「悠斗兄! お昼の弁当、追加で持って――って、うわ、空気重っ!」

 日向芽衣だった。

 片手に弁当袋、もう片方の手に紙袋。

 朝と同じエプロン姿で、息を切らしている。

 入ってきた瞬間、店内の重さを察したらしい。

 目がこはるの涙、俺の顔、源三さんの畳まれた新聞、テーブルのスマホを順番に見た。

 そして、少しだけ眉を下げた。

「……ごめん。タイミング悪かった?」

「いつも悪い」

 俺が言うと、芽衣はむっとした。

「ひど。こっちは唐揚げ弁当の追加と、こはるちゃん用に卵焼き柔らかめに焼いて持ってきたのに」

 こはるが、涙の残る顔で芽衣を見る。

「……私用?」

「うん。朝、唐揚げ食べてたけど、まだたくさんは無理そうだったから。卵焼きならいけるかなって。あ、甘めと出汁巻き、両方あるよ。どっち派か分からなかったから」

「……どっち派」

「大事だよ。目玉焼き宗派より、卵焼き宗派の方が争いが深いから」

 俺は思わず口を挟んだ。

「お前、さっきの会話聞いてたのか?」

「聞いてないけど、悠斗兄がそういうくだらない分類しそうなのは分かる」

「幼なじみ力を無駄遣いするな」

「幼なじみじゃないし。夏休みにちょっと遊んでただけだし」

「じゃあ何で悠斗兄呼びが残ってるんだよ」

「呼び方変えるタイミング逃したの。人間関係ってそういうものでしょ」

 芽衣はそう言って、紙袋をテーブルに置いた。

 明るい。

 相変わらず、明るい。

 でも、ただ空気を読まない明るさではなかった。

 今のこはるに、重すぎる言葉をさらに重ねないための明るさだった。

 芽衣は、こはるの前にしゃがむ。

 目線を合わせる。

「こはるちゃん、泣いた?」

 直球だった。

 俺はまた焦る。

「芽衣」

「大丈夫。聞き方は雑だけど、責めてない」

 芽衣はそう言って、こはるにポケットティッシュを差し出した。

「泣いた後ってさ、鼻がやばくない? 目より鼻が先に裏切るよね」

 こはるは、ぽかんとした。

「……鼻」

「うん。泣いてる時は感情が主役なのに、途中から鼻水が全権を握る」

「全権」

「だから、はい。高級ティッシュじゃないけど、駅前の薬局でもらったやつ」

 こはるは、受け取るか迷った。

 芽衣は、急かさない。

 ただ、手を差し出したまま待つ。

 こはるは、ゆっくりティッシュを受け取った。

「……ありがとうございます」

「どういたしまして。で、今は何が起きてるの? 説明できる範囲で。できないなら、しなくていい。でも、泣いてる子の前でおじさん二人が怖い顔してたら、そりゃ余計泣くよ」

「おじさん二人って、俺も含まれてる?」

「二十八は若者ではない」

「鋭利」

 源三さんがふんと鼻を鳴らした。

「わしはおじさんではなく老人だ」

「そこ誇るところですか」

「中途半端よりいい」

「源さん、そういうとこ強いよね」

 こはるは、ティッシュで目元を押さえながら、三人のやり取りを見ていた。

 たぶん、意味が分からないのだろう。

 さっきまで謝罪配信の話をしていたのに、今は卵焼き宗派と鼻水の話をしている。

 でも、人間の現実なんてそんなものだ。

 どれだけ人生の危機でも、腹は減る。

 泣いていても、鼻は出る。

 誰かが持ってきた卵焼きは冷める。

 ドラマみたいに、深刻な場面だけが続くわけではない。

 芽衣は、こはるの横に座った。

「こはるちゃん、十八時に何かあるの?」

 こはるの身体が強張る。

 俺が代わりに答えようとすると、こはるが小さく首を振った。

 自分で言う、という合図だった。

「……仕事で、謝らないといけなくて」

「仕事」

「はい。昨日、休んでしまったので」

「倒れてたのに?」

「……はい」

「倒れてたのに謝るの?」

 芽衣は本気で不思議そうな顔をした。

 こはるは俯く。

「たくさんの人に、迷惑をかけたから」

「ふーん」

 芽衣は腕を組んだ。

「じゃあ、そのたくさんの人は、こはるちゃんに何かしてくれるの?」

「え?」

「謝れって言う人たちはさ、こはるちゃんが昨日、雨の中で倒れてた時に、迎えに来てくれたの?」

 こはるは、黙る。

「ご飯食べさせてくれた?」

「……」

「寝てていいよって言ってくれた?」

「……」

「泣いてもいいよって、ティッシュくれた?」

「それは芽衣が今やっただろ」

 俺が言うと、芽衣は俺を見ずに答えた。

「だから言ってるの」

 その声は、静かだった。

 芽衣はこはるに向き直る。

「私は仕事のこと分かんないよ。VTuberとか配信とか、名前くらいしか知らない。推しとかも、悠斗兄が昔から変なテンションで語ってたから、まあそういう文化があるんだなーくらい」

「俺、そんな語ってた?」

「小学生の時からゲームの話だけ早口だったじゃん」

「黒歴史を掘るな」

「でもね」

 芽衣は続けた。

「倒れてる人に謝れって言う仕事は、ちょっと怖いと思う」

 こはるの目が揺れた。

 芽衣の言葉は、専門的ではない。

 業界の事情も、契約の仕組みも、ファン心理も知らない。

 だからこそ、真っ直ぐだった。

「もちろん、迷惑かけちゃったなら、いつか説明とか謝るとかは必要なのかもしれないよ。でも、それは今じゃなくてもいいんじゃない? 今のこはるちゃん、謝る前に、卵焼き食べた方がよさそうな顔してる」

「卵焼き」

 こはるが、涙声で繰り返す。

「うん。泣いた後は卵焼き。これは日向家の家訓」

「そんな家訓あるのか」

「今できた」

「うちと同じ経営方針じゃないか」

 芽衣は紙袋から小さな容器を出した。

 甘めの卵焼き。

 出汁巻き。

 ついでに、ひじきの煮物と、柔らかめに炊いたご飯の小さなおにぎり。

「商売品じゃなくて、家で食べるやつ。見た目は微妙だけど、味はたぶん大丈夫」

「たぶん」

 こはるが言う。

「たぶんって言った方が、駄目だった時に逃げ道あるから」

「正直ですね」

「商店街で生きるコツは、見栄を張りすぎないこと」

「名言っぽいな」

「悠斗兄にだけは言われたくない」

 芽衣は小さな箸を渡した。

「食べられる?」

 こはるは、少し迷ってから頷いた。

「……少しなら」

「少しでいいよ。少し食べて、残りは悠斗兄が食べるから」

「だから俺は残飯処理係じゃない」

「食べるでしょ」

「食べるけど」

「ほら」

 こはるは、卵焼きを一切れ口に入れた。

 甘めの方だった。

 ゆっくり噛む。

 飲み込む。

 そして、小さく言った。

「……甘いです」

「甘いの嫌い?」

 芽衣が聞く。

 こはるは首を横に振った。

「嫌じゃないです」

「よかった。うちの父さん、卵焼き甘すぎ問題でよくお母さんに怒られてるから」

「お父さんが作ったんですか」

「うん。こはるちゃんにって言ったら、張り切った。うちの父さん、若い女の子に弱いから」

「……そうなんですか」

「でも変な意味じゃないよ。娘しかいないから、娘の友達にご飯食べさせるの好きなの」

 こはるは卵焼きを見つめる。

「友達」

 その言葉だけ、少し違う響きだった。

 芽衣は一瞬きょとんとして、それから少し照れたように笑った。

「いや、勝手に友達扱いしたら重いか。ごめん」

「……嫌じゃないです」

 こはるは、小さく言った。

「嫌じゃ、ないです」

 芽衣は目を細めた。

「そっか。じゃあ、仮友達で」

「仮」

「本契約は後日。契約書は卵焼きで」

「契約書に卵焼き使うな」

 俺が突っ込むと、芽衣は笑った。

 こはるも、少しだけ笑った。

 その瞬間だった。

 スマホがまた震えた。

 店の空気が、再び固まる。

 こはるの箸が止まる。

 芽衣はスマホを見る。

 それから、こはるを見る。

 事情を完全には知らないはずなのに、何となく察したようだった。

「それ、今見なきゃだめ?」

 芽衣が聞いた。

 こはるは答えない。

「見たら、卵焼きの味消えそう?」

 こはるの指が震えた。

 正解だった。

 芽衣は、こはるの手元にある箸を見た。

「じゃあ、あと一口食べてからにしよ」

「……え」

「あと一口。そしたら見ていい」

「でも」

「でもじゃなくて、あと一口。逃げるとか逃げないとか、配信するとかしないとか、大きい話は分かんない。でも、今の卵焼きはあと一口でいいから食べてほしい。うちの父さんが張り切ったから」

 芽衣の声は軽い。

 でも、その軽さの中に、ちゃんと祈りみたいなものがあった。

 こはるは、スマホと卵焼きを交互に見る。

 迷う。

 すごく迷う。

 たかが卵焼き一口で、そんなに迷うのかと思うくらい。

 でも、その一口は彼女にとって、スマホの向こうに戻るか、ここに留まるかの境目みたいだった。

 やがて、こはるは箸を動かした。

 卵焼きを一切れ取る。

 口に入れる。

 噛む。

 飲み込む。

 芽衣が、にっと笑った。

「勝ち」

 こはるは、少し目を丸くする。

「勝ち、ですか」

「うん。こはるちゃんの勝ち」

「何に」

「知らない。何かに」

「雑」

 俺が言うと、芽衣は胸を張った。

「雑でも勝ちは勝ち」

 源三さんがカウンターでぼそっと言った。

「雑な勝ちの方が、人間には多い」

「源さん、急に深そうなこと言うのやめて」

「深くはない。歳を取るとな、だいたいの勝ちは雑になる」

「人生論が渋い」

 こはるは、スマホを見た。

 今度は、さっきよりほんの少しだけ呼吸が落ち着いている。

 画面を開く。

 俺も、芽衣も、源三さんも、何も言わなかった。

 こはるはメッセージを読む。

 そして、小さく息を吸った。

「……マネージャーさんからです」

「うん」

「十八時の謝罪配信、台本が送られてきました」

 俺の背筋が冷える。

「読むのか」

 こはるは少し迷った。

 それから、首を横に振った。

「今は、読みません」

 その一言に、俺は息を止めた。

 小さな言葉だった。

 だが、それは彼女にとって、ものすごく大きな抵抗だったはずだ。

 芽衣が、静かに拍手した。

 ぱち。

 ぱち。

 ぱち。

「何ですか」

 こはるが困った顔をする。

「いや、今のは拍手でしょ」

「そんなことじゃ」

「そんなことだよ。読まなかった。えらい」

「子供扱い」

「子供扱いじゃないよ。人間扱い」

 芽衣は、当たり前みたいに言った。

 こはるは言葉を失う。

 俺も少し黙った。

 人間扱い。

 そうだ。

 俺たちは今、こはるを人間扱いしようとしているだけだ。

 特別な救済でも、推し活でも、ドラマチックな何かでもない。

 飯を出す。

 泣いたらティッシュを渡す。

 スマホを見る前に卵焼きを一口食べさせる。

 謝れと言われても、今は謝らなくていいと言う。

 ただ、それだけだ。

 それだけのことが、彼女の世界では足りていなかった。

 こはるは、スマホを伏せた。

 その手はまだ震えていた。

 でも、スマホを胸に抱え込むことはしなかった。

「……ありがとうございます」

 芽衣は笑った。

「どういたしまして。じゃあ、次は出汁巻きいく?」

「え」

「甘いのだけだと飽きるでしょ」

「商売がうまいな」

 俺が言うと、芽衣は肩をすくめた。

「日向弁当の次期看板娘なので」

「次期っていうか、もう看板背負ってるだろ」

「背負ってるのは借金と売れ残り」

「笑えない現実を混ぜるな」

 芽衣は笑っていたが、その言葉には少しだけ苦みがあった。

 こもれび商店街は、どの店も余裕がない。

 日向弁当だって同じだ。

 駅前にチェーンの弁当屋ができてから、客は減った。

 父親が朝から揚げ物をして、母親がレジを打ち、芽衣が配達と店番をして、それでも売れ残る日がある。

 芽衣の明るさも、ただの明るさではない。

 生き残るための明るさだ。

「芽衣さん」

 こはるが、出汁巻きを少し食べた後に言った。

「ん?」

「どうして、そんなに明るいんですか」

 芽衣は、出汁巻きの容器を持ったまま固まった。

「うわ、急に深い質問来た」

「すみません」

「いや、いいけど。えー……どうしてって言われると困るな。生まれつき半分、商店街育ち半分?」

「商店街育ち」

「ここってさ、暗くなろうと思えばいくらでも暗くなれるんだよ。シャッター多いし、客来ないし、源さんは毎日文句言うし、悠斗兄は目が死んでたし」

「俺を商店街の暗さの象徴にするな」

「でも本当じゃん。最初来た時、廃棄前のもやしみたいな顔してた」

「食材で例えるのやめろ」

 芽衣は、少し笑ってから続けた。

「でも、暗い顔してても弁当は売れないし、お腹空いた人は来るし、父さんは揚げすぎるし、母さんは値引きシール貼るタイミングで毎日悩むし。そういうの見てると、明るいとか暗いとか言う前に、今日の唐揚げをどうするか考えなきゃいけないんだよね」

「……今日の唐揚げ」

「うん。人生って、だいたい今日の唐揚げだから」

「佐伯さんのナポリタン理論と同じ匂いがする」

 俺が言うと、芽衣は指を鳴らした。

「商店街哲学だよ」

 こはるは、不思議そうに聞いていた。

「今日の唐揚げを、どうするか」

「そう。売るのか、値引きするのか、家で食べるのか、誰かにあげるのか。全部は救えないけど、今日の唐揚げくらいなら何とかなる時がある」

「……」

「こはるちゃんも、今日全部決めなくていいんじゃない? 謝罪配信とか、仕事とか、ファンとか、家族とか、でかすぎるもん。まず今日の卵焼き。今日の白湯。今日の昼寝。そういうのでよくない?」

 芽衣の言葉は、妙に生活臭くて、優しかった。

 ネットの言葉にはない匂いがした。

 こはるは、しばらく黙っていた。

 それから、小さく頷く。

「……今日の卵焼き」

「うん」

「少し、分かる気がします」

「ならよかった」

 芽衣は嬉しそうに笑った。

 その時、源三さんが立ち上がった。

「黒瀬」

「はい」

「わしは少し見回ってくる」

「見回り?」

「黒いワゴンの件だ」

 俺の表情が変わったのを、こはるが見た。

「黒いワゴン?」

 しまった。

 まだ話していなかった。

 芽衣も目を細める。

「何それ。聞いてない」

「昨日の夜、商店街をゆっくり回ってたらしい」

 源三さんが言う。

「駅の方から来た見慣れん車だ。裏路地にも入ったと聞いた」

 こはるの顔色が変わった。

「……黒い、ワゴン」

「心当たりあるのか」

 俺が聞く。

 こはるは、はっきりとは答えない。

 だが、その沈黙が答えだった。

 芽衣が低く言う。

「事務所の人?」

「……分かりません」

「分からないって顔じゃないよ」

 芽衣の声はさっきより硬かった。

 こはるは俯く。

「マネージャーさんが、移動で使っている車に……似ているかもしれません」

 店内の空気が、また重くなる。

 事務所が、もうここまで来ているのか。

 それとも、偶然か。

 まだ分からない。

 だが、こはるの怯え方を見る限り、楽観はできない。

 源三さんは鼻を鳴らした。

「勝手に人の商店街をうろつくとは、礼儀を知らん連中だ」

「源さん、商店街を私有地みたいに言わないで」

 芽衣が言う。

「似たようなもんだ。ここに残ってる店は、全員顔見知りだ。見慣れん車がうろつけば分かる」

「それはそう」

 源三さんは俺を見た。

「娘を表に出すな」

「分かってます」

「店の裏口も鍵をかけろ」

「はい」

「あと、お前一人で格好つけるな」

「格好つけてません」

「格好つけとる顔だ」

「俺の顔、便利に診断されすぎでは」

 源三さんは答えず、店を出ていった。

 扉のベルが鳴る。

 残されたのは、俺とこはると芽衣。

 芽衣はしばらく扉を見ていたが、やがて俺に向き直った。

「悠斗兄」

「何だ」

「これは、ただ女の子拾ったって話じゃないね」

「最初からそうだ」

「いつから知ってたの」

「何を」

 芽衣は、こはるを見た。

 それから、俺を見る。

「こはるちゃんが、普通の家出の子じゃないってこと」

 こはるが緊張する。

 俺は、少しだけ考えた。

 ここで全部話すべきか。

 芽衣は信用できる。

 でも、こはるの秘密を俺が勝手に明かす権利はない。

 俺はこはるを見る。

 こはるは、俺の視線の意味に気づいたようだった。

 少し迷ってから、彼女は小さく言った。

「……芽衣さん」

「うん」

「私は、名前を出せない仕事をしています」

 芽衣は黙って聞く。

「顔も、本名も、普段の生活も、出せません。出したら、たぶん、たくさんの人に迷惑がかかります」

「うん」

「でも、今、仕事先の人たちが私を探しているかもしれません」

「うん」

「私は、戻らないといけないと思っています。でも、戻りたくないとも思っています。どっちが正しいか、分からないです」

 こはるは、そこで一度言葉を切った。

 そして、かすれた声で続けた。

「だから、迷惑をかけます。すみません」

 芽衣は、じっとこはるを見ていた。

 次に、俺を見た。

「悠斗兄」

「何だ」

「この子、謝るの禁止にした方がいいね」

「もうしてる」

「徹底足りてない」

「厳しいな」

 芽衣はこはるの隣に腰を下ろした。

「こはるちゃん」

「……はい」

「迷惑かけます、までは言っていいよ」

「いいんですか」

「うん。人間、迷惑かけるから。そこは事実」

「事実」

「でも、すみませんを自動でつけるのは禁止。つけるなら、ありがとうも一緒につける」

「ありがとう」

「そう。たとえば、“迷惑かけます、ありがとう”。これならまだいい」

「……変じゃないですか」

「変だけど、すみませんだけより健康的」

 こはるは少し考える。

「迷惑かけます。ありがとう」

「うん」

「……変です」

「でしょ。でも、ちょっと笑えるでしょ」

 こはるは、ほんの少し笑った。

「はい」

「じゃあ採用」

 俺は横から言った。

「勝手に店内ルールが増えていく」

「喫茶こもれび特別法でしょ?」

「お前まで使うな」

 芽衣は、卵焼きの容器にふたをした。

「じゃあ、今日の方針。こはるちゃんはここで休む。謝罪配信の台本は今読まない。十八時のことは、昼ご飯食べてから考える。外に変な車がいたら、源さんが騒ぐ。悠斗兄は一人で抱え込まない。私は弁当屋とここを往復する」

「お前、店は?」

「母さんに言ってある。こはるちゃんが心配だからちょくちょく見に行くって」

「情報漏洩が早い」

「母さんも卵焼き追加する? って言ってた」

「日向家、強いな」

 こはるは、少し戸惑った顔をした。

「あの、そんなにしてもらうわけには」

「出た」

 芽衣が指を立てる。

「そういう時は?」

 こはるは固まる。

 それから、小さな声で言った。

「……迷惑かけます。ありがとう」

「はい、百点」

 芽衣が笑う。

 俺も、少しだけ笑った。

 こはるは照れたように俯いた。

 その顔は、さっきまでより少しだけ生きて見えた。

 だが、安心するには早すぎた。

 店の外から、車のエンジン音が聞こえた。

 ゆっくりと、商店街の通りを進む音。

 芽衣が窓へ駆け寄る。

 カーテンの隙間から外を見る。

 顔から笑みが消えた。

「……悠斗兄」

「何だ」

「黒いワゴン」

 俺は窓に近づいた。

 商店街の通り。

 雨上がりのアスファルト。

 シャッターの並ぶ道。

 そこを、黒いワゴン車がゆっくり走っていた。

 運転席は見えない。

 後部座席の窓は黒く、内側は分からない。

 車は、喫茶こもれびの前で一度速度を落とした。

 こはるが、ソファの上で息を止める。

 手からスマホが滑り落ち、毛布の上に転がった。

「……あの車」

 こはるの声は、ほとんど聞こえなかった。

「知ってるのか」

 俺が聞く。

 こはるは、青ざめた顔で頷いた。

「マネージャーさんの、車です」

 黒いワゴンは、店の前を通り過ぎた。

 だが、遠くの角で止まった。

 完全には去っていない。

 俺は、カーテンを閉めた。

 店内が少し暗くなる。

 芽衣が低い声で言った。

「謝罪配信どころじゃないじゃん」

 その通りだった。

 十八時の画面の前に、現実の追っ手が来ている。

 こはるは毛布を握りしめ、震えていた。

 俺は彼女の前に立った。

 守れるかどうかなんて分からない。

 俺は一度、自分の炎上から逃げた男だ。

 戦って勝った経験なんてない。

 法的な知識も、業界の力も、頼れる事務所もない。

 あるのは、潰れかけの喫茶店と、口の悪い商店街会長と、卵焼きを持ってくる弁当屋娘だけ。

 それでも。

「白瀬さん」

 俺は言った。

「今日だけは、ここにいろ」

 こはるが、震える目で俺を見る。

「でも」

「でもは聞いた」

「迷惑が」

「それも聞いた」

「私は」

「白瀬こはる」

 俺は彼女の名前を、もう一度呼んだ。

「今ここにいるのは、月乃こはねじゃない。謝罪配信の台本でもない。白瀬こはるだ」

 こはるの目に、涙が浮かぶ。

「だから、今日だけは逃げろ。俺の店に」

 芽衣が横から言った。

「うちの弁当屋にも逃げていいよ」

 店の外で、車のドアが閉まる音がした。

 誰かが、商店街の通りに降りた。

 俺たちは全員、息を止める。

 次の瞬間。

 喫茶こもれびの扉のベルが、からん、と鳴った。

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  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第61話 後戻りできない資料

    第61話 後戻りできない資料 翌朝、俺はこはるの顔をまともに見られなかった。 理由は分かっている。 昨日の夜、こはるが俺を呼んだ。「……悠斗さん」 たった五文字。 声としては、かすれていた。 小さかった。 たぶん、配信で使っていた月乃こはねの声とはまるで違う。 それでも俺には、耳の奥に残るには十分すぎた。 朝、コーヒー豆を量っている最中にも思い出した。 カップを洗っている時にも思い出した。 店先の五つのトマトを見た時にも、なぜか思い出した。 五つのトマトと「悠斗さん」に何の関係があるのかは分からない。 ただ、思い出した。 人間の脳は、時々まったく関係ないものを同じ箱に入れる。 たぶん今の俺の頭の中には、「白湯」「トマト」「悠斗さん」「照れ逃げ顔」が一緒の棚に入っている。 最悪だ。 こはるも、明らかにおかしかった。 窓際の席に座っているが、いつもより少し姿勢が硬い。 白いパーカーの袖を指先まで引っ張り、ホワイトボードを膝に乗せている。 俺が白湯を置きに行くと、彼女は一瞬こちらを見て、すぐ目をそらした。「白湯、置いとく」 俺が言うと、こはるは小さく頷いた。 そして、ホワイトボードに書く。【ありがとうございます】 いつもの文字。 いつものやり取り。 なのに、昨日の声が間に挟まっているせいで、どうにも落ち着かない。 俺は意味もなくカップの向きを直した。 こはるも意味もなく白湯のカップを少し回した。 二人して、白湯の周りで不審

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第60話 推しが、俺の名前を呼んだ日

    第60話 推しが、俺の名前を呼んだ日 好きだったものを、嫌いにならないために休む。 その言葉は、朝になってもこもれびのテーブルの上に残っていた。 紙に書いたわけではない。 けれど、そこにある。 白湯のカップの横。 名前の箱のそば。 証拠の箱の上に置かれた、昨日の方針札の隣。【今日の置き場所】 その紙を見るたびに、俺は昨日のこはるの文字を思い出す。【月乃こはねを辞めたいほど苦しい】【月乃こはねを嫌いになりたくない】【嫌いにならないために、離れたい】 矛盾している。 だが、人間の本音なんてだいたい矛盾している。 辞めたい。 でも、捨てたくない。 逃げたい。 でも、嫌いになりたくない。 声を休ませたい。 でも、待ってくれている人に何かを返したい。 その全部を、昨日こはるは箱に入れた。 今日は、それを言葉にする日だった。 喫茶こもれびは、朝から妙に静かだった。 静かすぎて、かえって落ち着かない。 店先には、昨日の五つのトマトが並んでいる。 八百屋の親父さんは、「五人衆は崩すな」と言って帰っていった。 崩すなと言われても、トマトだ。 熟れたら食べるしかない。 源三さんは入口近くで新聞を読んでいる。 今日は足元に何もない。 と思ったら、カウンターの端に小さなザルが置いてあり、中にきゅうりが三本入っていた。 もう誰が置いたのかも分からない。 商店街では、野菜が自然発生する。 こはるは窓際の席にいた。 白いパーカー。

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第59話 辞めたいと言った夜

    第59話 辞めたいと言った夜 その夜、こはるは一度も泣かなかった。 だから、逆に危ないと思った。 泣く時は、まだ外へ出ている。 涙という形で、体の外へ出ている。 けれど、泣かない時のこはるは、内側に水が溜まっていくように見えた。 静かで、薄くて、触れたら冷たい。 昨日、事務所上層部から「本人との直接面談」「契約上の問題」という言葉が来た。 こはるは書いた。【声が出ない私は、損害ですか】 その文字は、俺の中にまだ残っている。 損害。 十九歳の女の子が、自分の喉と自分の存在に対して使うには、あまりにも冷たい言葉だった。 俺は怒った。 真柴さんに止められた。 芽衣はプリンを出した。 源三さんは「紙は人の上に置くな」と言った。 そして、こはるは名前の箱と証拠の箱の横に、方針の札を置いた。【直接会うかどうかは、私の体も一緒に決めます】 それは、昨日の小さな勝ちだった。 けれど、小さな勝ちは、次の日の朝に全部を救ってくれるわけではない。 朝のこもれびで、こはるはいつもの窓際の席に座っていた。 白いパーカー。 膝の上のホワイトボード。 隣に白湯。 スマホは避難箱の中。 証拠の箱と名前の箱は、カウンターの下の棚に並んでいる。 店先には、今日もトマトがある。 四つだったはずのトマトは、五つになっていた。 さすがに聞いた。「八百屋さん、トマト増えてません?」 八百屋の親父さんは、店先で腕を組みながら言った。「五人衆だ」

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第58話 契約上の問題

    第58話 契約上の問題 契約上の問題。 その言葉は、朝になっても喫茶こもれびの中に残っていた。 昨日、月乃こはね公式アカウントが動いた。 体調不良による活動休止継続。 憶測には回答しない。 詮索、接触、撮影、確認行為は控えてほしい。 今後の活動については、本人の体調および関係各所との協議を踏まえ、慎重に判断。 外から見れば、無難な文章だったのだと思う。 けれど、こはるには違った。 彼女は書いた。【月乃こはねが、遠くなりました】 そして、夜には名前の箱へ三枚の札を入れた。【月乃こはねは、少し遠くにいる】【声を守る人】【ここにいる白瀬こはる】 それだけで、昨日は閉店できた。 だが、閉店できたことと、問題が消えたことは違う。 朝のこもれびには、まだ「契約上の問題」という冷たい言葉が置かれていた。 俺は、カウンターの上を拭いていた。 拭く必要は、たぶんない。 昨日も拭いた。 一昨日も拭いた。 カウンターだけなら、今のこもれびは王宮の食卓より綺麗かもしれない。 だが、手を動かしていないと落ち着かなかった。 こはるは窓際の席にいた。 白いパーカー。 膝の上のホワイトボード。 隣の白湯。 目の前には名前の箱。 今日は、その箱を開けていない。 箱を見るだけで、月乃こはねという札が大きくなりすぎる気がするのかもしれない。 源三さんは入口近くで新聞を広げている。 今日は足元に何もない。 そう思った瞬間、テーブルの横に白菜が半玉置いてあるのに気づいた。 もう何も聞かない。

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第57話 月乃こはね公式、動く

    第57話 月乃こはね公式、動く 名前の箱に【悠斗さん】という札が入った翌日、月乃こはね公式アカウントが動いた。 それは、昼過ぎだった。 喫茶こもれびは、珍しく普通の喫茶店らしい時間を過ごしていた。 カウンターでは俺がカップを拭き、窓際ではこはるが白湯を飲み、入口近くでは源三さんが新聞を読み、店先では八百屋の親父さんが勝手にトマトの位置を直していた。 トマトは四つになっていた。 理由は聞いていない。 聞くと、たぶん「四天王だ」とか言われる。 いや、八百屋の親父さんなら言いかねない。 芽衣は日向弁当の昼の波が少し落ち着いてから来る予定だった。 今日はまだ来ていない。 だから店内は、比較的静かだった。 静かで、少しだけ眠くなるような午後。 こういう時間が続けばいいのに、と俺は思った。 思った瞬間、スマホ避難箱が震えた。 こつん。 木の箱の中でスマホが鳴る音は、もう俺たちにとって警報に近い。 こはるの肩が小さく跳ねた。 源三さんが新聞を下ろす。 俺は手に持っていたカップを、そっとカウンターに置いた。「見ます」 俺が言うと、こはるはホワイトボードを握った。【真柴さんですか】「確認する」 スマホ避難箱を開ける。 通知は真柴さんからだった。『月乃こはね公式アカウントから、追加告知が投稿されました。私が先に確認しています。直接見ないでください。通話できますか』 月乃こはね公式。 その文字だけで、こはるの顔から少し血の気が引いた。 名前の箱の中にある【月乃こはね】の札が、箱の中から勝手

  • 炎上して全てを失った元ゲーム実況者の俺、田舎の寂れた商店街で“推しの中の人”を拾う 〜無口な天才VTuber少女と始める   第56話 ちゃんと呼びたい名前

    第56話 ちゃんと呼びたい名前 名前を呼ぶだけのことが、こんなに大ごとになるとは思わなかった。 いや、正確には、俺は名前を呼ぶ側ではない。 呼ばれる側だ。 だから余計に、どうしていいか分からなかった。 喫茶こもれびのカウンターには、今日も三つの箱が並んでいる。 スマホ避難箱。 証拠の箱。 名前の箱。 最初に見た時は、変な店だと思った。 今も思っている。 白湯があり、トマトがあり、時々大根やこんにゃくやごぼうが流れ着く喫茶店。 そのカウンターの下に、炎上対策の証拠と、傷ついた名前がしまわれている。 もう、喫茶店というより、商店街の避難所だ。 それでも、コーヒーは出している。 たまに「懐かしい味」と言われる。 褒め言葉かどうかは、まだ決めていない。 その日の朝、こはるは名前の箱をじっと見ていた。 白いパーカー。 膝の上にホワイトボード。 今日は声を使わない日。 真柴さんからの業務指示は、もうこちらの生活の一部みたいになっている。 窓の外では、八百屋の親父さんが店先のトマトを並べ直していた。 昨日より一つ増えている。 理由は分からない。 たぶん、火ではない赤が増えたのだ。 こはるは、名前の箱を開ける。 中には、昨日までに入れた札がある。【月乃こはね】【白瀬こはる】【匿名ラジオの人】【こもれびにいる人】【白湯の温度にうるさい人】【何もない、ではないかもしれない人】【名前を知らない時から、いた人】【面倒でも、いらないではない人】 俺の札もある。

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